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天球の諧調 

アジェンダ第二回   日時:2004.6.27(日)14:00〜16:45    於:旧香港上海銀行     宗教曲のコーナー T/U

フリーディスカッション <14:50〜16:30>

前半の討議記録

宮田氏:
今日のフリーディスカッションは2回目です。前回は教会文化というテーマで始めましたが、これからこれをどんな格好で進めてゆくか、我々も心の準備もないままで(始めてしまったものですから)、いろんな話を聞かせていただいて、こういう機会に、結論の出る会議ではありませんので、日常生活に思っておられることをぶつけ合っていただいて、どうしたら長崎の街が現状を、教会がもっとこんなお願いをしてみたいというごいろんな意見を話されておられるんじゃないでしょうか。

先ほど聖地という話がありましたが、5人の話がありましたけれども、我々の中の聖地という言い方でも非常に、いろいろ話があったように、みんなバラバラ、バラバラというか多種多様、私はその方がいいと思って、あまり「聖地とは?」という定義を決めないほうがよい。

要するに皆さんに共通なのは、やはり新しい融合、長崎の街が一つの融合の街、宗教を超えた融合の街そういう街にしていきたい、あるいは土地ということが共通だったように思いましたが、そういう意味で「聖地」という話がありましたが、私の中でひとつショッキングだったのが、ブライアンさんが話した言葉で「期待をしているけれど、時折非常に絶望する」と、長崎の街のつくり方をみても絶望感を味わせるような...。わたしは長崎を20年間ほど離れていて、外から見ているんですが、やはり外国から来た方が骨を埋めるつもりで、案外いい街だなと当初期待をしている(人の)ことを長崎が裏切っているということ、これは非常にショッキングでした。

これもブライアンさんが言われた、「長崎の人が勉強してない...歴史を踏まえてない...」といういことですね。これも私は非常にショッキングでした。以前私は別のシンポジウムでブライアンさんに申し上げたんだけれども、長崎の宝は実は若い人である。東京から見ましてそう思うんです。長崎の夢総体、あるいは長崎の高校生のあのパワーは日本中だって、私もイベント関係をやっていますから、長崎の高校生のスポーツイベントにはほとんど顔を出しています。京都の駅伝、バレーボール、バスケットボール、国見のサッカー、そういうところを見てますと、長崎のパワーはベスト5だということを誰しも豪語していますね、長崎のスポーツ関係者は。それはやはり相当な苦労があって、鍛えられた成果だろうと思います。

国見の練習を見ますと、私は長年続けて国立競技場で練習を見ていますけれども、非常に礼儀が正しい。素直で、市立船橋だとか帝京高校の高校生と非常に違う。みんな感激したのは、5万人の大観衆がほぼ埋め尽くしていましたが、長崎はすごいあぁ...と。試合だけじゃないんです。非常にマナーがいい。私は誇りに思うんです。それは彼らはやはり己の伝統を保護している、そういう意味で長崎は勉強が足りないんじゃないかと私は思うんですが。まぁ、今日はそういうブライアン先生の話で非常に感じたことなんです。

まぁ、そういうことで聖地という長崎の在り様というものを、ほかの皆さんどのように考えられているか、何かご意見がありましたら一言ちょっとお話を聞かせていただきたいと思います。

中山さん:
私はかなり個人的な考え方からも知れませんが、私はカトリック信者でも幼児洗礼を長崎ではなくて東京で受けたんです。それで長崎に縁がありまして(今長崎に住んでいます)。

東京の信者と長崎の教会の在り方を比べてみますと非常な違いに驚きまして、長崎の信者の方というのは、自分たちがどんなに素晴らしい信仰を持っているかということをあまり認識してないんじゃないか...と思うのと、こういう風に話し合いの場を作っていただいたのも信者さんじゃないんですね。教会を活用すると言うか、それはもっとこれは長崎の信者の方から変えていかないと、信者のほうの気持ちをもっと外に向けていかないと、この話はそう簡単に行かないんじゃないかと言う気がします。そうしないと教会は信者の祈りの場所なんで、信者たちがその気になってくれないと教会を使うことは出来ないんですね。

それで教会を使うようにするために、大きなイベントから...というのは無茶だから、それぞれの教会で小さなミニコンサートだとか、それも週二回とか、各教会持ちまわりで、同じ人たちが、素人たちが、ちょっと自分たちで練習した曲を今日はこの教会、来週はあの教会...と、少しずつそういうコンサートで...。そのコンサートを聞きに来てもらうのは先ず信者から。そのようなことから信者の意識を変えてゆくことをしないと、その次の段階、もっと大きな、こちらでも考えられているようなイベント、「聖地」としてのイベントにもって行くというのはなかなか大変なことだと言う感じがします。

長崎の信者はとても素晴らしいミサをしているんです。私は時々実家に戻りまして、いくつか教会を回りますが、長崎の教会のミサは素晴らしいんです。でも、そのことを長崎の信者の方はあまり認識していないんじゃないかと思うんです。その辺をまず掘り起こさないと次の段階には行かないと思うんです。

宮田氏:
ありがとうございました。今の話から信者さんの心を変えるというのは難しいことで、そうまた簡単には行きませんね。そこあたりは信者さんの意見もいろいろあると思うんで、ちょっとどなたか、いいですか?今日はなんでもいいんですよ。自由に発言してもらって結構ですから。

大串さん:
私は幼児洗礼で、大学は東京で、看護学校は大阪でした。やはり県外の教会を見てきてますけれど、すごく恵まれている長崎ということで、安心して自分の教会に行けるという風な感じは受けています。でもやはり沢山恵みをいただいていると言うことをあまり感じないで(いることがあります)。

私は城山教会所属ですが、この間高校生、北高の吹奏楽が教会でコンサートをしたそうです。私は行けなくって、参加できなかったんですが、学校の先生が結婚式を城山教会でして、素晴らしかったので、この子供たちもコンサートをここでしたいということで、実現したとそうです。これからはそういう小さなコンサートを沢山していくと、信者も変わって行くんじゃないかと思います。

吉村さん:
生活のプライオリティから教会はだんだん後回しとなって消えてしまっていった。大学ころから教会というのはクリスマスとイースターのころだけになってしまって、毎日曜日のミサにはほとんど行かないようなことになっていました。結婚式は地元の教会で挙げさせてもらったんですけれど。

教会を意識しだしたのは10年ぐらい前からのことになります。「長崎の教会に所属しているのは幸せでいいミサをしていますよ」という話が今ありましたけれども、僕の場合は逆でした。いろいろな社会活動を聖イグナチオ(教会)でやっていたんですが、いろんなところに行く機会があって、様々な教会を訪れて、教会の典礼というのは確かに大変良いように感じます。ただ、おミサの終わった後ですね、教会が交流の場ということになるとですね、長崎の教会、長崎の信者の皆さんとしては羨ましかったです、少ないなりにそれぞれの役割があることをひしひしと感じられて、長崎にないのはこれだな...と思いました。

信者の人々が信じているということは人それぞれで、違うと思うんですが、そのひとり一人の心を変えるのではなくて、その心をどこか一本の線でつなぐ、ハブのようなもの、教会はそのハブの役目があると思いますが、教会の組織もあると思いますが、その周りにあるものも大事だという気がしますが。

山口さん:
私は大人になってから洗礼を受けたんですが、仕事を始めてから県外に出て、千葉県ですが、教会に所属したことがあります。東京や千葉ではいろんな教会での講演会などに一般のお客さんが足を運ばれる機会が多いです。ミサにもたくさんの洗礼を受けていらっしゃらない方がいらっしゃいました。教会自体が一般の人々に非常に開かれていまして、教会のミサなどで聖歌をうたったり、本当に気軽に参加できる雰囲気がありました。

長崎に帰ってくると教会はミサ以外には使用しないという常識がありました。最近ですが曽野綾子さんの講演会やオペラのコンサートや復活コンサーとなどに使われるようになってきましたが、長崎の住民でも年配の方になると教会に足を運んだことのない方もいらして、お友達の結婚式などで足を踏み入れてみると、「こんなにステンドグラスがたくさんあったのですね、教会は敷居が高くてね...」とおっしゃいます。

長崎自体には教会は財産だと思うんですネ、だからいろんなときに祈りの家ですから節度を持って、私たちがご案内できるような備えをすることは、ミサやいろんな機会に教会に足を運んでいただきたいし、結婚式でも今では県外からインターネットでアクセスして、この教会で式を挙げたいです...という結婚の準備をされてこられる若い方も多いので、長崎の信者としては長崎の財産である教会にもっと多くの人に訪れていただくことにお手伝いできたらなぁということを私自身が思っています。

宮田氏:
ありがとうございました。
柿森さんは教会を世界遺産にする会の事務局長をされています、非常にご奮闘されていますが、そういう面で今の信者さんの話は幾分ご存知だと思いますが、過去・現在・未来を見た場合に、いろんな場合に最近感じられていることがあると思いますので、その点についてお話いただけますか?

柿森氏:
どちらかというと教会は内にこもっているという傾向があるのかな、もっと開かれたものになれば、そういった中で、何が教会としてできるか、結婚式とか音楽と言うものもあると思いますが、もっとほかにも、ヨーロッパに行くと、どの教会にも守護聖人というものがあります。それぞれの教会の守護聖人の祝日には様々なお祭りがあります。例えば一つの例として、そのような守護聖人の祝日に神父様たちが一般の人々にも呼びかけて、そこで交流していって積み重ねてゆくということがあると思います。

宮田氏:
野下神父、今までにいろいろとお話が出ていますが、
教会としても開かれた方向へ動いているというお話もされていますので、そのあたりについてお話いただけませんか?

野下神父:
教会は本来はやはり宗教の宗教的な儀を請け負うために建てられているので、ホールではない訳で、祈りの場所を祈りの場所らしく保存する、そのような神聖な場所がそうでないものによってぶち壊されるというリスクもあるわけです。そういうことを防御することは、信者にとって権利であり義務でもある訳です。だからと言って、、信者でない人たちに扉を閉ざすというのはこれまた考えモノです。その中庸というものを、やっぱりお互い、信者のためだけ、祈りの家であるものを俗化しない程度で神聖な場所を味わえる場所として開放する線はあるはずです。

どこまで教会を開放するのか、どういう形で開放するのが一番いいのかということは、両者が、教会も教会の内部を開くことを模索すると同時に、そうでない人も教会を利用するということについて、考えるということはお互いに考えなければならない。

今、黒崎教会も観光客が訪れます。ひっきりなしに修学旅行、仙台から、東京、大阪から、そういう時私もクラスとして1時間すごしたりします。人を入れると、一般の人も出入りすることになり、その出入りを管理しなければならない。東京カテドラルには一般の人を受け入れるために事務室を教会の中において、24時間対応している。そうして頻繁に利用している人々の管理をしています。そのためには人を雇って給料を払って、管理しなければいけないんです。

市や県や観光業者が企画書を持ってきます。私は言うんです。「そりゃ、見てもらって良いんだけど、この教会も歴史物として維持してゆくのは大変です。」

(ハウステンボスはどこかこのあたりに高価な旅館を持っていて、業者はそのようなところには多額にお金を落としてゆくが、ドロ神父記念館や教会にはお金を決して落としては行かない...人を迎えるとなれば電気は終日つけていなければならないし、スリッパもそろえておかねばならない、そしてトイレ、トイレのペーパーでも一ヶ月かかっても使い切れないほどのペーパーを一日で使ってしまう。水道も。電気もつけっぱなしにしているんです...こういうことを考えない)

大浦天主堂の聖水器は吸殻のマンホールになっている... このようなことがあるわけですね。で、貴方方は教会に入るときは賽銭くらいは払いなさいと言いたくなる (それでもほとんど入れない)。

このような施設(旧香港上海銀行記念館)は文化財であるので、市から人が常駐するようになっている。教会の場合、管理するといってそのような人を雇うことが出来ますか?(だからそういうことを企画しても対応が困難である)

(それから)キーワードのなかに「祈り・音楽・カーニバル」という言葉があるのは私は引っかかっている。

カーニバルというのはその昔、カラムスという言葉が語源となっていて、肉を控えて復活祭の水曜日から始まるその受難の期間に備えて、明日からは肉を避けて贅沢な食事は控えようという、その前日に「明日からは肉が食べられないから、今日はたらふく肉を食べよう」というようなことから始まったんですね。最初はそのような事が根底にあったのですが、そのようなことがだんだんエスカレートしてきてドンちゃん騒ぎになってしまっている、これがスペインもブラジルでも。私たち聖職者はそういうカーニバルで徘徊することは禁じられています。聖なる行事ではないです...それでカーニバルベービーというのが何十万と生まれているということ(ことからも解るように)、退廃している。

そういうこともありますので、カーニバルということを私たちがここで考えるということが外部に知れたときに、とんでもないことになりかねないので、十分注意して欲しいと思っています。

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