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天球の諧調 

アジェンダ第一回
  日時:2004.5.30(日)14:00〜16:45      於:サンプリエール

【ご出席】

宮本 誠氏 建築設計事務所会長、カトリック大司教区本部や浦上教会信徒会館設計者
野下千年氏 カトリック黒崎教会主任司祭、オペラ「26人の殉教」企画制作者
宮田隆氏 日本イベント産業振興協会理事 東京都在住 
柿森和年氏 長崎の教会群を世界遺産に登録する会事務局長
ブライアン・バークガフニ氏 長崎総合科学大学教授。インドを経て京都の禅寺にて禅の修行を経験
杉岡修次氏 長崎県職員、個人として賛同
鮎川和代 MCSオフィスルーム代表、アジェンダ企画制作

後半の討議記録

司会:
それでは会場の皆さまを交えたところでただいまよりフリーディスカッションを始めさせていただきます。

最初のアジェンダは「教会をめぐるこれまでの10年間を振り返って」ということになっています。ただいま小澤征爾さんの貴重なものをご覧頂ましたが、これは「音楽は祈りである」という重要なメッセージがあったのでご覧いただきたいと思いました。これから教会をめぐる10年間を総括する方向で討論を進めさせていただきたいと思います。

こうしたことを継続してゆくことで詰めてゆくことができると思いますので、そうしたところを含めたところでのご発言等をぜひお願いしたいと思います。先ほどの役10年前のコンサートをはじめとしてこの十年で様々な教会を会場とした音楽会が行われてきました。世界遺産登録やサントドミンゴ教会など、また長崎のことを長崎のみならず東京や横浜でも知らしめるようなことが展開されています。そのあたりのことについてご発言をいただければと思います。

バークガフニ氏:
私は魚の町に住んでいて、おくんちの踊り町でもあります。子供たちも囃子に参加したり、前轢きに参加したりして、私も参加者の一人としておくんちを見ることができ、「あぁ、これがおくんちなんだなぁ」という感じがありました。これは一言で言うと、観光客を喜ばすためとか、お金を見る人からいただくためということではなくて、これは参加者が参加すること自体名誉であって、またもちろん奉納踊りであるという気持ちも加わると思いますが、これは自発的に市民が参加して、なにか金銭的な営利のためではなく、また観光客を喜ばすためでもなく、それらはあくまで副産物として着いてくるもので、おくんちが200年も300年も続いたのは、これが理由だなと感じています。市民の自発的な意志が働いている。

このことは今話題になっているこの件についても、同じことだと思います。これは何か行政などが旗をあげて何かをするといったことではなく、またどこかの団体があってそこが何かをやるというより、私たち市民が中心になってこれを進める必要がある。それがたとえば一つの観光産業などに貢献するものであったりすることがあると思いますが、これはあくまで副産物であって、これはあくまで市民がしたいから、これが好きだから、これが長崎の大切な文化であるという意識から行われるべきであると思います。

宮田氏:
まさに今日も最初に申し上げようと思ったが、こういう場を行政を抜きにして相当自発的にやっているということは嬉しい事だと思う。今朝は私も東京からすっ飛んできましたが、この間の会議に出れなかったので、これが原点だと思う。こういうことを、まぁ、今日は集まっている方々の賛同を得ながら、今日は少ないけれども、帰られた方が今度は口コミするんですね。あの会はなんかやってるげなばい、面白かバイということになると、そういうことをイベント業界用語で言うと、人が集まること、そしてコミュニケーションをやることイコールイベントだと言える。

この間長崎に期待する、知恵を出して長崎の観光などに貢献するという目的で東京から堺屋太一先生をお連れしたが、言われるのは単なる観光ではなくて、その街自体が燃えなくてはならないということだ。その燃えるのは何かというと、自発的であることと非日常なことをやることだと、またそこには新しいものを入れてゆくこと、古いものに新しいものをどうやって入れてゆくかということ。それからみんなで育てるという面では継続できるものにするためにはある程度利益の出るものにしなければならないということ。そうしなければ続かない。たとえばおくんちなども相当お金が使われているけれども、基本的にはかなり身銭を切ってあると思われる。だけれど、やはり7年に1回来るというために子供さんのためにはやはり立派なもの、そして奥様方には新しいものを...と考える。これが非日常ですね。だが、これがやはり続く、やろうということにつながる。

そういう意味では私は今回の「教会と音楽」というのは、少々極端だが私のイメージの「祈り音楽カーニバル」という線で考えてみると、これが10年後、20年後、30年後には聖体行列3000人も夢じゃない...。しかし今はクリスチャンは特に、長崎は野下神父様はじめ長崎らしいクリスチャンの生き方をされているから、それを急に期待しても無理だと思う。

それともう一つ、クリスチャンのなかでそういうことをやる人を、旗振り役のような人、野下神父のような方がある面ではリーダーシップを取っていただければ、われわれが外から言うよりも、中から燃えてこないといけない。そういう意味ではこのような会はひとつの光だし、今後おおいに(期待したい)、Love is action.というか、みんな長崎が好きだ、教会が好きだ、音楽も好きだという、これが共通認識になる。好きなものは必ずアクションになる筈で、Love is action...これはマザーテレサの言葉だが、そういう意味では今日のこの会はとてもいい会だと思う。ぜひ、続けて行っていただきたいと思う。

目標を、次の会は何をやる、次は何をやるということを少しやや長期的に、50年先までとは言わないが、たとえば長崎でイベントとしては2006年は長崎の一つのエポックメーキングの年だ。橋ができたり、私に言わせると入れモノができるんだけれど、美術館だとか...。それにどうやって魂を入れてゆくか、そこにこういうメンバーがどう参画してゆけるかということを真剣に考えなければならない。なにも教会だけの音楽じゃなかろうと思うんです。
それともう一つ大きな目標としては2010年がある。世界中から上海に7000万人が集まる。イベントといったらアメリカのラスベガス、アジアでは上海、ヨーロッパではフランクフルト・ハノーバー、そういうところに大きく人が集まってゆく。そうすると長崎は上海とのかかわり、韓国との関わりは何がブリーチになるか...といったら、買い物は上海でしていただいて結構だとして、アジアやヨーロッパから来たような人には今一歩長崎まで足を伸ばしていただいて、何か静かな、日本の、長崎のキリシタン文化がどうなっているかということなどをどう訴えてゆけるか、ということが2010年ごろの大きな目
標ではないかと思う。

そういうスパンで考えると長崎ではTCA Think Catholic Asia In Nagasaki という長崎をアジアの聖地に、巡礼の地にしようというような動きがでてきている。東京から応援しようとしているのは、たとえばツーリストの幹部の方々に集まってもらって、長崎の教会めぐりのためにはこれだけのエチケットは守ってもらいたい、こんなイベントをやっているよ、とか祈りにはこんな意味があるよとか、音楽の意味があるよというようなことをメニューを作ろうとして、長崎の方と一緒になって、東京や関西から来る巡礼団、たとえば五島などの巡礼団がいま多いがそれはそうしたことへの気持ちがあるか
らで、大変な追い風にもなっている。

そういう意味でこの集まりにおいても具体的に今年は何をやる、来年は何をやるという道筋がある程度はっきり見えるなにか道筋ができると安心して皆さん集まることができる。たとえばさっきのような音楽は本当はもっと聴きたいと思う、お喋りばかりではなくて。

それとそれのために人を集める手段を考えなければならない。そして大切なこととして、こうしたことにははっきりした確信と自信とコンセプトが必要である。何をやるとそう決めたら、固い信念で、途中でたとえ人数が少々欠けたりしてもどんどんやっていく。そしてある程度お金を回す方法も考えながら...たとえば東京サイドで、TCAに関連してある方の案として2006年にある方の案で、これから教会とも詰めてゆくが、例えば長崎大司教公認のツァーをどのようにしてやろうかというようなことも出てきている。

それから新しい要素を入れて、今はITの時代でもあるので、たとえばバチカンの音楽と長崎をつないで、音楽討論、宗教討論、祈りの討論、平和討論、祈りの討論でもいいと思う、そういうことをやったり、あるいは遠藤周作記念大賞といった文学賞を作って受賞者が長崎から出てこないかといったことが案として出ているので、そういうところと、この会とがどのように連携してやってゆけるかということを真剣に考えなければならない。そのような大きいところ線があって、そのなかでこの会がどういう位置づけでやってゆくかということについてはっきりしなければならないのかなぁと思う。そういう意味でイベント的な、発展の素地があるという風に考えている。

レンゾ神父:
教会はカトリックの信者でない人から見ると、閉ざされたような印象があるかも知れないが、それには理由があったということも知ってほしい。これから私たちはいろいろなことで、最近でも世界遺産にしようとする問題でも、いつもぶつかる問題が、教会が祈りをする場所であること。それは観光で訪れたとしても、巡礼者として訪れたとしても、また司祭がミサを捧げるために訪れたとしても、それは変わらないこと。だから教会で音楽をしようと思っても、それは教さわしい音楽であり、祈るためのものでなければならないものだということ。

だから観光できたんだ、関係ない気持ちで来た、そんななかでタバコを吸いたいから吸わせてくれ...と言われてもそれは最初から無理だということです。それは私としては、私たちの立場としてある程度まで考慮して、そういう制限された雰囲気で困るというのであれば、最初から教会でそのようなことをしましょうと考えるのはやめたほうがいい。計画全体のなかでもそれは祈りという意味で参加しようとする人に、そういうことをやろうとする人にも伝わるようなことを考えたほうがいい。

じゃ具体的にはどういう風に考えればいいかということになるが、一つは知らせること。なぜ日本にある半分以上の教会が長崎県に集まったかということ。今横浜とあわせて開港のことを知らせるパンフレットがお手元にあると思いますが、その裏にあることとして信仰の力がその中に伝わっているということを抜きには語れない。もちろんそれに賛成する人、反対する人がいると思いますが、それは最初から考えてやっていったほうがいい、将来のことを考えると、たとえば10年経ってこんなはずではなかったというようなことになると困るので、最初からそのように考えていた方がよい。参加するこちらのほうもそのように最初から考えなければならないし、そのようにして少しずつ受け入れなければならないということは自己反省でもあるのですが。やはり両方がそのつもりで関わることが大事だと思う。

司会:
教会のお立場としての野下神父さまにお伺いしたいことがあります。私はカトリックの信者ではないのですが、こうしたことを皆さんと一緒に詰めてゆきたいという気持ちがあって、このような機会を作らせていただいております。

それで野下神父さまが教会のお立場として、レンゾ神父様がおっしゃったようにまず「教会の立場がある」と。また特に長崎には教会にまつわる歴史があるということでしたが、教会そのものがこれからどういった方向を考えていらっしゃるのか、例えば何か具体的な例があればお伺いしたいと思いますが。どうしても私たちのように(信仰にない者としては、)信仰にある・ないといったようなことを、私としてはぜひ一つ超越したところで共有できる部分があると感じてこういうことを始めているんですが。そういったことについて何かお言葉をいただければと思いますが。

野下神父: 
教会というものが日本では、「日本では」というより「長崎では」と言った方がいいかも知れませんが、長崎ではやはり教会は純粋な祈りの場であるということで、そして特にキリスト教的な祈りをする人々の祈りの家であるということが、非常に長い間支配的な見方であった。ヨーロッパでは早い時期から教会は一番中心となるミサを中心としたいわゆる秘蹟と言われサクラメントと呼ばれるミサに準ずる洗礼式だとか献身式だとか、結婚式だとか葬儀だとかそういうことを請け負う場であるということ。

それに加えてヨーロッパ各地では教会がそれだけではなしに、音楽、演奏の奉納の場で、そうしたミサや秘蹟などの祭儀とは直接関わりのない、しかしそれは宗教音楽というもののコンサートや奉納が行われていることはヨーロッパでは普通でした。

私もヨーロッパに行くときには何日かあると必ず夜の食事はホテルなんかではしないで、時間があったらインフォメーションで近くのコンサートやチャペルコンサートのプログラムを先ず見て、少なくとも一晩はそれに費やすこと、これを私は鉄則にしています。いろんな国でいろんなことを体験しますが、例えばイタリアの小さな路地にあ、る古い教会で、小さなビバルディのコンサートが行われて、その教会の小さな祭壇の上まで隙間のあるところはすべて聴衆が入り込んで、階段の上にも、祭壇の上にいるチェリストは演奏すると肘が当たらないギリギリのところまで並んで聞いている、出窓があれば出窓のところまでずっと座っている。演奏の最後まで私はいたが、通路には新聞や雑誌がたくさん散らばって、終わったら片付けるのでしょうが、そういうチャペルがコンサートの会場に、ウィークデイでしたが、とってもいい雰囲気の小さなチャペルにたくさんの人が集まってコンサートを聴いている、そういう情景がありました。

先ほどチェコの話をしましたが、夕方、市役所前の広場に行きますとたくさんのビラ配りがあってて、もらうビラの中に半分ぐらいはチャペルコンサートがあるんですね。それで曲目をやっぱりみます。やはり宗教音楽を中心としていますが、海外からの観光客を相手にしているプログラムでは必ずモルダウの演奏が入っていると...、の土地のオーケストラで、アンサンブルでぜひそれを聴いて帰りたいという人たちに応えたいろんなところでそれが行われている。

それから私はマニラにしばらくいましたが、マニラのある一つの教会では年に一度、旧約聖書のノアの箱舟、教会もそういうデザインで(私が前にいた浦頭の教会もノアの箱舟をデザインそういう形をしていて、それから最近建った城山の一番長崎では新しい教会、教会は人々を乗せて神様のところに運ぶというノアの箱船にはそういうイメージがあるのですが)、そのマニラの教会で毎年同じ題材のミュージカルが行われるんです。教会全体が箱舟になって、たくさんの動物が入っていくんです...音楽を奏でながら...もちろんそれは作ったものですが、あるときは本物を連れて入るんだそうですよ、聞いたところによるとですね、小動物が使われることもあるそうです。像を連れてはいるのは無理でしょうが。本当にそのようにまさに定着して行われているんですね、そういうのがあります。

それからカナダトロントにあるカトリックチャーチですね、あの教会に2ヶ月間滞在しました。あそこは自分たちでちゃんとしたアンサンブルを持っています。ですからミサはほとんど大きな祝祭日はそのオーケストラ付のミサなんですね。それから有名なカナディアンブラスなんかが定期に来て割れんばかりの響きを放つとか...。そういうことでごく自然なんですね。

日本では私はしばらく東京にいまして、東京目白の聖マリアカテドラルですね、ここではすべての日曜日はカトリック教会の西洋音楽コンサートが中心であってもカトリック側は使えないくらい、これはやはりある程度宗教音楽コンサートですから、ほんとうにそのために使用規定が設けてあって、半年前から一年前から申し込みがあってしょっちゅう使われている。このように日本でもこのような状況が訪れているんだなということを15年前に東京にいて感じた。

では長崎ではと言いますと、先ほど小澤征爾の復活コンサートのことが話題になったが、おそらくこの時が長崎における、ミサや式と関係なしに演奏会が正式に行われた最初だと思うんですね。その後浦上天主堂は相当の回数でいろんなリサイタルやアンサンブル、合唱などに使われてきていると思います。とは言え中町教会でも幾度か行われた、皆川辰夫さんの生月音楽の掘り起こしだとか、そういうのが行われましたが、いまのところ浦上だけだろうと思います。そのほか西町や城山については今のところコンサートがあったということは聞いたことがありません。それとここにいらっしゃる柿森さんの世界遺産運動と関連して、教会がもっと一般の人々にミサや祭儀以外に、なにか硬くならないで入れるチャンスということでチャペルコンサートを対象となっている、世界遺産の登録の対象となっている教会で、例えば五島、下五島や上五島の教会で行われていたようですが、相当何回か教会コンサートが行われていますね。

これが教会をコンサートのために一般の人々に開くという一つの流れにやっとなってきた。まあ、そういう中でもしかし、それを手放しで喜んでくれる人だけではないんです。浦上教会でも、浦上教会をできるだけそういう平和コンサートとかそういうことは場所柄、教会の歴史の上からもふさわしいことだから極力それは開放して...という考えに立つ人もいるか、あるいは教会側に物事をそういうことについて考えていこうというひとつの、いわば大きな教会の一つ一つの事業のようなものが立ち上がって教会がそうしたものに対するスタンスが確立されてゆくのは今からではないかと思う。

そういう意味で私はこういう運動が教会の外部からどんどん起こして立ち上がっているわけですが、私たちも特に、私はそう思っています、教会という空間を信者たちだけのものでなしに、一般社会との教会音楽を通じた良い、平和を考える、交流をする場として提供できてゆくことはいま時代の要求ではないかといった考えを持っています。こういうことが両者の考えがうまく一致してこういうアジェンダの実現に向けて実を結んでいくことを私としては望んでいます。

司会:
ありがとうございました。今日は何か一つ具体的なことを思い描いて、それを持って皆様との意見を集約されて次回につなごうと考えておりました。私自身としましては、ひとつ複線として考えていたものは、クリスマスの時期から次のイースターの時期、これはちょうど野下神父様もおっしゃっていましたが、長崎に行けばクリスマスの頃にグレゴリアン聖歌が聞けるということや、あるいは復活祭のころに教会のなかで実際にオーケストラの入ったおミサが行われるとか、そうしたことというのを華々しい規模でできると考えなくても私は構わないと思うんです、そうしたことを少しずつ規模も小さなところから例えば、バイオリンが4人にビオラが2人、チェロが1人といった小さな規模でもいいんです、信者の方々の理解のもとに そうした小さなところから演奏が行われる、最初は典礼ミサでなくても、ミサが終わってから演奏を聴いていただくというような音楽を通じた交流ですね、こうしたことから少しずつこうしたいろんな教会文化に関わることを語り話し合う機会を重ねてゆくことで少しずつビジョンというものが見えてくると思うんです。

宮田氏:
野下神父様にお伺いしますが、今の提案のクリスマスからイースターの春にかけてのそういうことは私は良いことだと思うんですよ。明快であってクリスマスのあとランタンフェスティヴァルがあって、みなと祭りがあってペーロンがあって、精霊船があると...四季折々の長崎らしいちゃんぽん文化が出来てくる訳ですね。それはそれでいい。ただしね、キリエだとかラテンもの音楽だとか本当の復活祭に小澤征爾クラスものもをやるということ、これはとてつもなく大変ですわね。

その前に野下神父にお伺いしたいのは、例えば長崎には純心だとか南山だとか、そうした学生たちのコーラスなどがあるでしょう...あのようなものからどんどんら市民層から、学生層から教会をもっと部活に使うんだと、さりげなく使うというか、そうすると市民の例えば自治会の人たちにしても教会をそのために開けてもらうとか、そんなことからの方が私はやりやすいなぁと私は思う。

大きな会をやるとやっぱり1万円とか、長崎で1万円出すといったらちょっと大変だと思うんだな、やっぱり5千円以下でないと。そう簡単に入れない。だから先ほどブライアン先生が言っておられたように、どのように市民が教会に入っていけるか、そういうふうな提案をして行ったらどうだろうか。

そしてそういう場合に民間の会社だったら、一つの会社が一つの教会で演奏会をやるとすると互いに競うようになるわけですね。そうすると私どもの会社でも新しい製品を出そうと競うようになるわけです、いい意味で。それは日本社会の独特の経済構造であって、良いものができてくる。長崎の場合せっかく10年前にああいう、浦上であったわけですね。そういう競うというクリスチャン文化ですな、例えば浦上でやるとしたら、そこがやるかどうかということはそこの神父さんが権限があるのか、それとも長崎大司教区が会議をやって認可するということになるのか。ちょっとね、立ち入っちゃいかんが、すみません...

野下神父:
たとえば浦上の場合でいうと、浦上は小教区の一つでもあるわけですよ。しかし小教区と言っても名実ともに持つわけで、大きな長崎全体の教区に対して、ひとつひとつの教会単位のことを小教区と呼ぶわけですが、浦上の場合は浦上小教区、浦上教会であると同時に長崎大司教区のいわば本部教会でもあるわけですよし、司教座、いわゆるカテドラルと言われる司教座聖堂であって、全然格が違うんです。ですからこの教会の主任司祭の権限も強いですけれども、その主任司祭即長崎教区の権威者ではないわけです、その本当の責任者は教区長、その座があるのでカテドラルと呼ぶわけですけれど、そういう段階がありまして、教区の本部でこれを受け入れるべきだ、あるいは教区レベルで採決して考えようと審議にかけるという段階のものもあるし、内容によっては主任司祭の採決によって受け入れないとする場合もある。でもそういうことについてはっきり言って私たち教区がこういうことを審議する機関はまだ確立していないというのが現状です。だから現在では現場現場の主任司祭の考えというのが具体的には一番関係あることです。

先ほど宮田先生がおっしゃったように、小澤征爾のようなことはこれは特別なことで、毎年やられては大変です、できることではないと思います。
ただ、鮎川さんが一番最初にオーケストラミサなんて持ってこられたので、オーケストラによるミサでないといけないのかなと思って正直言って私は考えたんです。今宮田先生が考えた小さなミッションスクールの、例えば南山小学校なんて全国に輝く合唱団ですね、なかなか聞けないんです。全国大会で金賞銀賞を受けるような実力ある合唱団ですよね。それが一般にはなかなか聞けない、純心もそうだし、佐世保の聖和だって実力持っているしね、地元にたくさんいる訳ですね。教会でそれができるとなるといい、そしてだれもかれも教会でコンサートができるわけではないので、教会らしいプログラムを企画していただくということへの協力は大前提となると思います。

例えば最近は世界遺産とともにあちらこちらの教会で企画されて、私はあるところからぜひ聞きに来てほしいと言われて、そのチャペルコンサートに行ってみたんですけれど、それは九大の管弦楽アンサンブルでやってきて、ポスターにはバロックコンサートイン五島だったんです。行って聞かせてもらうと、プログラムのなかでバロックを聞かせてもらったのはオープニングの第一曲の一番最初に演奏されたビバルディの「四季」の春だけだった。

その後はただちにヨハンシュトラウスに移り、そしてなんと休憩をおいてララのテーマになったり、そして「昼下がりの情事」になって、驚いてしまいました、その無感覚さに。その後その関係者とプレーヤー達5人とちょっとお茶を飲みながら、私に「一言」と言われたので、私はこの際これはすばらしい演奏会だったと言うべきものだろうけれども、それはもう省略させてくれ...すばらしくなかったとは言わないが、けれども宗教界はそういうことを、以前私はそこで長い間勤めてきて合唱団を指導して雰囲気を残してきてましたから、その合唱団とジョイントコンサートを行うことになっていると私は聞きましたから。私は言いました「まず本物であってくれ」と。「あなた方は歳は若いけれどもこれからは音楽家になるんだと。」そしてチャペルコンサートというのも初めての体験だいうことも聞いていると。音楽は作曲者の心から出て心に帰るとベートーヴェンも言っているし、作られる音楽には心があるんだ、と。その心と合わないような演奏では基本的にそのコンサートは駄目だと私は言ったんです。

こともあろうに祈りの場に持ってきて「昼下がりの情事のテーマでございます」なんてよくもあなた方ね、常識家であれ、音楽家である前に...と言ったことがあります。このような乱用が一度行われると、また反動が出てきて、閉じてしまうことになってしまいかねないですね。だからそういうことも含めて、教会コンサートのあり方は最初からある程度まじめに取り組んだほうがいいんじゃないかと。

宮田先生がおっしゃったように、また鮎川さんがさっきおっしゃったように何人かのソロコンサートであっても良いし、小規模のアンサンブルでもいいし、トリオのアンサンブルでもいいし、そこから始まって当然だろうと思います。さっき言ったそれが最後のおくんちや精霊流しなどといっしょに歩調をそろえようと思えば、そういう段階かなと思うから、捕らぬ狸の皮算用ということではあってもちょっとイメージしたに過ぎません。今すぐにできるわけはないんです、ここ五年や十年そこらで。だから最初はそういうことからだろうと思うんです。そういう意味ではまったく同感です。

司会:
先ほどお名前が挙がった南山の小学校と純心中学の合唱部のかたがたには、実は今日ここにおいでいただくようにかなり随分掛け合って校長先生などにまでお話が行ったんです。が、ちょうど学年が変わって卒業生が抜けてしまって声が全然そろわないと言うことで、残念ながら今日は2校ともに断られてしまったんです。時期が秋とかだったらよかったんですが...という、そういう話だったんです。

それで取り敢えず次回ですが、6月27日日曜日、午後2時スタートで、場所は旧香港上海銀行記念館になっています。この日は弦楽四重奏によるデモンストレーション演奏コーナーを予定しています。曲目はハイドン作曲のイエスの語った最後の七つの言葉の弦楽四重奏用に変曲されているもの、それからモーツァルトのアベベルムコルプス、アレルヤなどの宗教曲を実際に演奏するコーナーを用意しています。また是非皆様にはぜひお運びいただきたいと思います。

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