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平成7年6月13、14日
長崎市浦上天主堂
にて


  

もちろん平和のシンボルでいてもらいたいと思うけど...、

それよりも、この、文化的な、音楽なんかについて言えば、
ここに住んでいる音楽家を皆さんが大事にする、というか
逆にいえばここに住んでいる音楽家がうんと勉強してなるへく高い程度の演奏を、
要するに住んでいる人が楽しめる音楽の場をどんどん作っていったほうがいいんじゃないんですか。

日本はちょうど今そういうことをやろうとしていますよね...。
例えば皆さんご存じでしょうけど日本中の町で新しいホールを作る動きがあって、今までホールがなかったところで急にいいのができて、素晴らしいことがおこっているんですけれど、

今度はそれにですね、それだけじゃ足らないんで、そのホールのなかで演奏される中身ですね、 それも東京から来るとか、大阪からくるもの、あるいは外国からくるものに揺らないで、 自分のところで持つと...。

それがオーケストラだったら素晴らしいけれど、 オーケストラでないにしても室内楽にしても、あるいは小さなアンサンブルにしても、 街の人が気楽に、気楽な値段で、気楽な時に音楽が聴けると...、楽しめると...。

それが街のなかの楽しみの一つになるというふうになるといいと思いますね

<小澤氏自身のコメント 1995.6.14>


ながさき『復活』コンサートの記憶

「事務局に入る人は音楽と企業の両方をよく理解できていて、しかもいつもニュートラルな姿勢でいなければならない...」コンサート事務局スタッフの一人として勤務することを実行委員会から了承していただいたことを受けて、先ず私は小澤征爾さんの日本人マネージャーに必要な心構えについて助言を仰いだ。つねに世界のトップアーティストたちをマネージしている長年の経験に裏打ちされた大変貴重な視点をいろいろと指南していただいた。そこで冒頭の言葉を胸に私は長崎「復活」コンサート事務局に今からさかのぼること8年前の平成7年2月から6月末まで勤めることとなった。

事務局は長崎でもオフィスビルが立ち並ぶ万才町にある総合商社の一角に設置された。ひっきりなしに鳴る電話のベルやファクスの受信音、デスクトップからプリンターへ飛ばされたテキストがカタカタと絶え間なく印字され、またコピーされたものが次から次へと会議用の資料や郵便物として流れてゆく...。流通の中枢を担う総合商社と同じフロアーで、今や日本が世界に誇るマエストロ小澤を長崎に迎える仕事をする...このような刺激的な場面にいる自分自身を私は夢と現実の狭間にいるような気持ちで眺めていた。

私の担当は出演者の演奏以外のニーズすべてに関することだった。手始めに東京側の窓口にご挨拶の電話を入れてみる。「何から手を付けたら良いのか判らないのですが、必要なことには可能な限り対応したいと思いますので、要望はどんな小さなことでもお知らせください!」この申し出は功を奏したようで、やがて先方は微に入り細を穿つように要望を投げかけてくるようになった。長崎側も総力を挙げてそれを受け止めようとした。ステージの支障となる恐れのあることはどんな些細なことでもないがしろにしない...ただ、それだけを皆が考えた。

企業グループが主催して開かれるコンサートでは各社から事務レベルで多くの人々が参集してこられる。そのため早い時期からコンサートの運営手順や演奏会当日の進行などを確認していただくための会議用の資料が作成される。不本意ながらスケジュールの詳細の確定は本番の3週間前になってから...という東京側との打合せにたがわず、本番の直前になって次々と送られてくる正式な依頼にしたがって、資料の多くに調整を加える格好になってしまった。それらもすべて最終確定のものではなく、不測の事態にはいつでも対処できるよう多数の選択肢を求められた。例をあげればソリスト達のフライトは往路・復路ともにダブル・トリプルで便を確保していた。そして何より肝心のマエストロが陸路で長崎入りするのか、空路で入るのかコンサート前日まではっきりしていなかった。このあたりは苦心があったように思う。
コンサートでは人々の心の衝動に目を見張った。「どのくらい応募のはがきがくると思いますか?」と最初に尋ねられたときに単純計算ではじき出した数を現実ははるかに上回ってた。事務局に津波のように押し寄せる申込みのはがきの束に思わず嬉しい悲鳴をあげることも度々となった。はがきを寄せた多くの方々がその時、その場所すなわち浦上の丘にいなければならない...と何かに駆り立てられているようだった。そして本当に多くの方々が抽選に漏れることになってしまった。当時の長崎新聞社の取材によると阪神大震災の影響で当時全国的にクラシックの演奏会が不振だったなかで、このコンサートへの問い合わせが相次いで入っていたと伺っている。人々の心の琴線に触れるものがあったのだと思う。

この原稿を執筆するにあたって久しぶりにマエストロ小澤が演奏をすべて終えた後に行われたプレス会見の記録を読み返してみた。マーラーの交響曲第二番「復活」を選曲した理由について「要するにお祈りも死んだ人を悲しむだけじゃなく、これから先のことを含めたお祈りという、未来のことも考えたものというとこの曲は最高なんです...」とのコメントを寄せておられる。コンサート冒頭のバッハのアリアに先立って呼びかけられた黙祷がクローズアップされたためか、長崎「復活」コンサートは被爆から50年目の追悼コンサートとして捉えられて今日に至っている。
長崎に住んでいる私たちとこの街の音楽家の未来に対する貴重なコメントも寄せておられるので、この場をお借りしてご紹介(左の欄)してペンを置こうと思う。

原文は長崎県文化団体協議会が1996年に発行した文協/第52号に掲載されたもので今回のアップロードに際し若干手直しを加えている  筆者 : 有限会社MCSオフィスルーム 代 表 鮎川 和代


※プレス発表記者会見における小澤氏自身の コメントより一部抜粋/ テープ起し責任者  同上