hierarchy<art
芸術分野ヒエラルキーへの考察
(2003年10月28日)

 「建築の出発点は死者のための覆いを作ることだった」とかつて文献で目にしたその記憶は薄らいでいたが、この度サイトを一新するのにシンボルマークをギリシャ時代の神殿をモチーフにしたいと漠然と考えていたことから、果たしてギリシャでは建築の出発点は何だったのだろうと気になり始めている。建築も芸術分野だと考えているからだ。

  アントニオ・ガウディーのサグラダ・ファミリア聖堂のように着工から100年経ってもなお、数多くの人手と関心を惹きながら完成までに更に100年とも200年とも言われるその特異な求心力は人知を超えている。

  長崎大学水産学部出身でその後演奏畑から作曲、さらに舞踏のジャンルへと変転を遂 げ国内外で活躍中の宇佐美陽一氏と最近会うことがり、頭の中のタイムカプセルが時を迎えてふたたび開いたせいか、思おうところがあって1冊の薄いリーフを取り出だしてみた。それは今から数年前(1997年)の夏から秋にかけて3ヶ月にわたって彼の作曲を中心としたセミナーを開催したときの資料として手元に数冊残しておいたものだ。

  彼の作品、弦楽四重奏曲「燃える冬の丸木舟」は、中国少数民族のミヤオ族の生活スペースである丸木舟が最後には文字通りその主の棺となって燃える情景から浮かんだ作品であったが、その長崎初演の折に協同で執筆したプログラムから芸術分野全般に及ぶ ヒエラルキーの視点を再び思い起こし、このサイトを組み立てる上での一助として役立 つのではないかとひそかに考えている。

  そのヒエラルキーの記述は次のように始まっている :

 
人が生命を全うして肉体を捨て去るとき、裸の魂をそのまま空間に放置するのではなく、魂がまといたいと欲する形態でつつむそれは人々が生活している空間を自らどのように仕切りたいかという建築芸術のテーマへと進化する。

 次に私たちが自らの肉体を空間に拡散しようとすると、服飾芸術へと展開していく。その原形は未開民族の人々がまとっている衣服の色彩にあらわれているらしい。興味深いことに抽象的な意味で服を着ることをやめると、人々はたいてい趣味の悪いものを 着ることになる。未開のジャングルで今日でも生活する人々の身を覆っているものはカ ラフルで目を引くものではあってもパリコレのバイヤーたちの心を惹くものとはなり難いのではないか(決して優劣を言っているのでは断じてない)。


  服飾の土台となる人体の形態のなかに入り込み、いかに形成されたかを理解すると次 に現れるのが彫刻芸術だ。自然界が持っている造形のはたらきに身をまかせるには彫刻家になろうとする者は、彫刻する時に頭で考えるのではなく

つまり皮膚から体内へと進むのではなく、私たちの支柱である骨格から皮膚を通り越して空間へと開放する感覚が不可欠だ。皮膚は外界と私たち自身の内部を隔てるものと考えてしまいがちだが、そのような見方には芸術としての限界が潜んでいるように感じる。

  ここまではすべて空間をテーマとしている。やがてテーマは空間から平面へと至る。 画家は平面の中で空間の謎を解こうとしている...と嘗て神秘家は語ったことがある。 「目に見える表象から空間的な要素を取り去ると、
すべては光と色彩に収赦する。」な んとも難解だけれど、この平面芸
術のなかに大きなターニングポイントが存在すること はピカソやゴッホの絵画がその生涯のなかで何度も変容していることからある程度察し が付かないだろうか。さらに先ほどの記述は「色彩と光のなかで目に見える表象ではな く、見えないコスモス(宇 宙)のなかに生きるように再現してみようと駆られるのがそ れだ」と続く。見ていて「わからないなあ」 と、つい思ってしまう前衛的な絵も、絵筆 をにぎった人にとっては忠実に内面を再現していることになる。このように芸術的創造が内的に刺激される方向へと向かうのがわかる。

 私はかつて宇佐美さんの作品“石の百合に”をピアノで演奏したことがあった。異国の地の作曲者(おそらく宇佐美氏自身のことと思われる)の傍らで百合の花が咲いていた。何の変哲もない百合の花がまるで手を一杯に広げたように咲き誇り、やがてそれは凍ったように透明と化し、空間を見透かす存在となる。そしてある日、はらりと散ってゆく…その情景は外的な世界の形悪とちがう呼吸と循環のリズム、つまり音楽的律動へと表現の手投が高められてゆく。こうして音楽分野が登場する。

 「朗読し、朗唱するとき、人間のなかの内的、神的な芸術家を私たちは外に向かって解き放とうと試みているのです。」先ほどの彫塑の場合と同様、精神が拡散するその動きを芸術分野のなかで高度に昇華したものが詩の分野となる。谷川俊太郎作詞、林光作曲による作品“空”(フルートとソプラノ)と、先ほどの宇佐美さんの作品“デトリタス”(フルート)の作品はいずれも先ほどの音楽的律動と朗唱がお互いに歩み寄った作品で、とくにデトリタスはフルートと語りが一人の奏者によって同時に行われる。

  かつて福岡市天神のイムズビルで様々な画家たちの合同絵画展を見に行った折、ある黒板絵を特集したコーナーへと差し掛かったとき、その中の一つ、科学と芸術(1923年12月7日)と題された黒板絵のなかで「科学‥‥‥私は認識であるが、私の存在は実在しない。芸術‥‥‥私は想像力であるが、私の存在は真実ではない。」とあった。

 現代は科学万能主義の影響下にあるが、その行く方は今後混沌としてくる予感が拭えない。この「科学」と「芸術」自らの吐露とも思われる文章は多くの示唆を今後に与えている。私たちは地上で果たして自らの原像のなかに存在するものを本当に実現しているのだろうか…と私たちは自らに問いかける必要がある。先ほどの言葉によると、実在しないとされている科学に比べ、芸術のほうは少なくとも存在はしている。そしてその黒板絵は次のように結んでいた。

本来表現するべき原像は天界に保存されている…と感じると、その表現へと駆り立てる衝動が生まれ、新しい世代をリードする前衛芸術となるのです。